聖書のみことば
2022年2月
  2月6日 2月13日 2月20日 2月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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2月13日主日礼拝音声

 弟子たちの派遣
2022年2月第2主日礼拝 2月13日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第6章6b〜13節

<6節b>それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。<7節>そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、<8節>旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、<9節>ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。<10節>また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。<11節>しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」<12節>十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。<13節>そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

 ただいまマルコによる福音書6章6節後半から13節までをご一緒にお聞きしました。6節後半と7節に「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた」とあります。主イエスが12人の弟子たちを二人ずつ組にしてお遣わしになったことが述べられています。ここに語られているのは、教会の伝道の起源です。主イエスが教会を伝道の働きにお遣わしになる、その一番最初の出来事が語られています。既に聞いたところですが、マルコによる福音書1章39節には、主イエスがガリラヤ中の会堂に行き、盛んに宣教し、悪霊を追い出された様子が語られていました。主イエスは、最初の頃はご自身一人だけで伝道なさいました。しかし時が来ると、ご自身の伝道の業に弟子たちも参加するように導かれたのでした。その始まりの箇所が今日聞いているところです。

 マルコによる福音書では、主イエスが弟子たちを派遣して伝道の業に当たらせるという出来事は今日の箇所だけですが、それは一度限り行われた例外的なイベントだったということではありません。ルカによる福音書を見ますと、12人の弟子の派遣を皮切りにして、次には72人の弟子たちが伝道に送り出されていきます。使徒言行録ではフィリポやペトロ、パウロたちが、主イエスの十字架と甦りの出来事を宣べ伝えて盛んに伝道の旅をしたことが語られています。教会にとって伝道することは特別なことではありません。むしろ、それは日常的なことです。しかしそれがいったいどこから始まったのか、その発端がどこにあるのかということを、今日の記事は伝えています。
 教会の伝道は、人間が思いついて始まり人間が飽きたら終わるというものではありません。教会が伝道することの一番大本のところには、「主イエスご自身がガリラヤ中の町や村を巡り歩いて、神の恵みの御支配がやって来ていることを宣べ伝え、信じて悔い改めるようにと招かれた」、その動きがあります。そして主イエスは、ご自身が一人でそれをなさるだけではなく、その御業に弟子たちも参加するように招いてくださいました。ここから聞こえてくる第一のことは、それが主イエスの深い御心によるということです。12人が自分から思いついてやりたいことを始めるのではありません。12人の弟子たちは、主イエスから遣わされていく、いわば主イエスの名代です。12人は主イエスの名を帯びた使節、文字通り使徒として遣わされていきます。
 また使徒たちは、自分の気に入ることだけを行って気に入らないことはやらないというのではありません。あるいは気に入らなければ、自分でさっさと使徒を辞められるというのでもありません。伝道に遣わされる使徒たちは、キリストの御名を帯びて、キリストの働きを担います。状況が良かろうと悪かろうと、またその働きが上手く行こうと行くまいと、キリストの御名を帯びた僕(しもべ)として、主イエスによってそれぞれの働きに遣わされ、仕えるようにされていくのです。
 主イエスは12人をお遣わしになるに当たって、二人ずつを組にして、一人ではなく複数で働くようになさいました。これは、片方がもう一方の上に立つためではありません。お互いに監視し牽制し合うためでもありません。助け合い、支え合うためです。今日の箇所に登場する使徒たちは、互いに助け合い支え合いながら、宣教と癒しの業に遣わされていきます。傑出した孤独な人が自分の才能や能力に物を言わせて神を宣伝し信者を獲得するというのではありません。伝道は個人の業ではなく、主に遣わされた者たち、主に従う者たちが互いに協力し合って、教会の業として進められていきます。

 主イエスは使徒たちを遣わすに当たって、二つのことをおっしゃいました。最初は、旅に持って行く持ち物のことです。そしてその次には、出かけて行った先でどのように振る舞うかという振る舞い方についてです。
 まず、8節9節に「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」とあります。使徒たちは、最初から潤沢すぎる備えを持たないようにと釘を刺されています。この旅には、旅行用の杖しか持って行ってはならないと申し渡されています。パンも袋もお金も持つなと言われています。袋とは革製の袋のことで、普段ならばその中に衣類や食料や旅行用品が入るのです。しかしそういう袋を持っていくことは許されません。帯の中に金も入れずと言われていますが、帯は財布代わりのもので、そこにお金を入れるなら銅貨のことですが、その銅貨も持って行かないように求められます。まして金貨や銀貨といった高価なお金は貧しい旅をする伝道者には縁のないものです。
 マルコによる福音書12章15節を見ますと、主イエスご自身も、1デナリオンも持っておられなかったことが分かります。主イエスがヘロデ派やファリサイ派の人たちに皇帝の税金の話をする場面で、1デナリオン銀貨に誰の肖像が描いてあるかを示そうとなさるのですが、主イエスご自身は銀貨を持っておられませんから、「持って来なさい」と、持って来させて示されたと語られています。主イエスご自身は、1デナリオン銀貨、今日では1万円札と言って良いと思いますけれど、そういう持ち合わせもなかったのです。
 旅の履物を履くようにと言われていますが、これは底の薄いサンダルのようなものです。そして下着も2枚は持たないのです。
 こうなると、主イエスから遣わされる弟子たちは、いわば完全に他から提供されるものだけを頼りにして生きていかざるを得ないことになります。自分であらかじめ何かの蓄えをしたり、あるいは何かの元手で稼ぐ可能性を持ちません。しかし遣わされる使徒たちは、そういう貧しいあり方をすることによってだけ、伝道することで金儲けをしているという疑いを持たれずに済むのです。御言葉を宣べ伝えるに当たっては、それで儲けてやろうという私利私欲を抱いてはなりません。誠につましい生活をすることによって、当時社会に多く出没していた詐欺まがいの物乞い説教者と取り違えられないで済むのでした。使徒たちは主イエスから遣わされて、本当に貧しい生活の中で福音を伝えるように求められました。

 また、使徒たちの振る舞い方、身の処し方については、10節に「また、こうも言われた。『どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい』」と教えられます。伝道について主イエスが教えられることの中で、この言葉は特に注目させられる言葉です。伝道者は、ある土地に遣わされたら、その土地に長く留まるというふうでなくてはなりません。駆け足で全国各地を巡り、様々な土地で神の御国を触れて回ったりしなくても良いのです。むしろ、移り気であちこち渡り歩くというのは、よくないことなのです。
 御言葉によって宣べ伝える神の御支配、神の事柄というのは、それを聴く人々の心にはなかなか定着しないということを、主イエスはよくご存知でした。
 私たち人間は、神の恵みの御支配、神の慈しみが自分の上にあるのだと聞かされた時に、とても喜んで、それをすぐに分かった気になってしまうようなところがあります。しかし、「愛されている、慈しみのもとにある、大切にされている」ということは喜んで聞くことがあるとしても、それが自分の上に、今、支配する力として臨んでいるのだから「自分もまた、慈しみに生き、愛して生きなければならない」とは、なかなか思えません。愛されることは大好きですが、誰かを愛するということは苦手なところがあるのです。
 自分が気に入った人なら愛せるかもしれませんが、目の前にいる人を、「神さまがこの人を愛しておられるのだから、わたしも愛そう」とは、なかなかなりません。
 弟子たちが遣わされていった土地で教会の基礎が出来上がり、そこに集められた人たちが教会の民らしい物事の感じ方や考え方ができるようになるためには、かなりの時間が必要になるのです。その間、使徒たちは辛抱強くその土地での働きに仕えなくてはなりません。誤解されることも、また誤解に基づいて悪い評判を立てられ、辛い思いをすることもあるかもしれません。しかしそれでも辛抱強く、「あなたの上には、神さまの慈しみの御支配があるのだ」と、反発する人たちにさえ語り続けなくてはならないのです。
 けれども、それだけの時を過ごすためには、当然、その土地のどこかに宿る家が必要になります。使徒たちは、もともと財産があったり十分な収入を得たりできるわけではないので、土地の人たちに支えられ宿らせてもらって、働きに当たることになります。そういう家が見つかり、迎えてもらえたならば、もはや他の家に移ったりはしないようにと、主イエスは教えられました。
 この戒めは、伝道者は粗末な家に住めということではありません。そうではなくて、伝道者がある家から他の家に移ることは、その伝道者を迎えて特別な立場に立つ家の人たちの嫉妬や争いを招く元になりがちなので、そういう不毛なことにならないようにという注意です。このことは、他の福音書でもとても大切なこととして教えられています。ルカによる福音書では非常にはっきりと、「家から家へと渡り歩くな」と言われていますし、マタイによる福音書でも、「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい」と教えられています。
 おそらくこれは、教会が伝道していった最初の頃の苦い経験が下敷きにあるものと思われます。遣わされた伝道者が、最初はある家に厄介になったけれども、しかしもう少し良い条件で迎えてくれる別の家があったので移り住もうとした、その結果、本当なら同じ教会の兄妹姉妹になるはずの人たちの間で半目や争いが生じて、その教会がなかなか上手く育たなかったという不毛なことがあったものと思われます。伝道者に宿を提供しその側近くに接したということが、後にその教会の中の平等ということを打ち消すほどの権威を持つようになっていく、そういう場合があり得るのです。伝道者は、つい自分の生活が安楽になることを願って誘惑に負けてしまうことがあり得るのですが、そうなってはいけないという戒めが10節に語られていることです。

 このように、主イエスは使徒たちに二つの基本的なことを命じられた後、さらにもう一言を付け加えられました。それが11節の言葉です。「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」。伝道者は辛抱し忍耐して「神の恵みの御支配」を宣べ伝えます。「神の慈しみを信じて生きるよう」にと、人々を招きます。伝道者自身が誤解を受けても悪口を言われても、伝道者はそのことで音を上げずに、その土地に仕え続けます。
 しかしそれでも、その土地の人々がどうしても伝道者を迎え入れず、語る言葉に耳を貸さないということも、残念ながら無いとは言えないのです。そういう時には、伝道者はその土地を立ち去って行くことになります。そしてその際には、足の裏から、つまり履物からその土地の土を払い落とさなくてはなりません。そうすることで、「厳かに交わりが絶たれる」ということになります。これは、「伝道者が伝えようとした救いをその土地の人々が拒否したので、もうその土地と伝道者の間には何の関わりもない」ということのしるしです。
 ただしこれは、その土地の人々への呪いの行いというのではありません。伝道者によって宣べ伝えられた救いを拒否したのですから、もしかすると、その土地の人たちには神の裁きが臨むことがあるかもしれません。しかし、必ずそうとは決まっていないのです。神はそれでも忍耐をして、さらに違う伝道者をその土地に送られるということもあり得ます。伝道者と土地の人たちの関わりが切れた後、その土地がどうなっていくかというのは、伝道者自身、つまり使徒たちにはあずかり知らないことなのです。神だけが、その土地の人たちをどうするかをご存じであり、お決めになります。

 このように主イエスから聞かされた後、12人の使徒たちはそれぞれの伝道地に赴きました。その結果が、12節13節に「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」と述べられています。これが、主イエスに呼び集められ主イエスから送り出された最初の使徒たちの伝道の様子でした。
 使徒たちは、主イエスの働きを思い返しながら、主イエスに習って働いたようです。主イエスが宣べ伝えておられたのと同じように、「神さまの恵みの御支配が、今、あなたの上に来ている」と告げ知らせ、「悔い改めて、信じて生きるように」と勧めました。そしてまた、主イエスがなさっておられたように、悪霊を追い出し、癒しの業に仕えました。
 主イエスによって招かれ、務めを与えられた使徒たちは、お互いに助け合い支え合い、励まし合って、こういう目覚ましい業に仕えたのでした。この時の使徒たちの働きがいかに目覚ましかったかということは、この先の6章14節で、ガリラヤの領主だったヘロデ王の耳にまで主イエスの噂が届いたというところにも現れています。

 主イエスが伝道の働きに送り出した使徒たちは、わずかに12人でした。二人ずつ組にしたのですから、6チームです。しかし、この使徒たちの心を合わせた働きによって、本当に多くの人々が救いへと導かれ、主イエスの御名が知られるようになりました。「主イエスが共にいてくださり、主から遣わされて仕える業は必ず実現する」と信じて仕える時に、そこではまさに、主イエスご自身が御業をなさる時のような大きな力が現されます。神の御国の到来が宣べ伝えられるところでは、「それを信じて、癒される」ということが実際に起こります。
 そういうことは、今日の教会の中でも起こっているのではないでしょうか。私たちもまた、生活の中で辛く苦しい思いをしながら生きている時に、毎週の礼拝において、「それでもあなたの上には神さまがおられ、神さまの憐れみがあなたの上にある」ということを聞かされ、ほっとした気持ちにさせられ、そして、「もう一度、今あるところで歩んでみよう」という新しい思いを与えられて生活していくということがあるのではないでしょうか。その時には、様々な事柄が破滅的に失われるのではなく、粘り強く忍耐をもって続けられ、やがてそれが実を結んでいくということも、私たちの生活にはあるのです。

 しかし最後に、今日の記事は、遣わされた使徒たちの働きが万事が上手くいくと伝えるだけの記事ではないことを覚えたいのです。今日の箇所では、二人ずつ組になった使徒たちは御国の到来を宣教し、そして確かに、「癒しの業」を行っています。
 しかし今日の箇所の少し先、9章を読みますと、同じ使徒たちが癒しの業に失敗し、上手く癒しが行えなかったという記事も出てくるのです。使徒たちは、当然自分たちで追い出すことができると思っていた悪霊を追い出すことが出来ず、大変きまりの悪い思いをすることになります。そこでは、主イエスご自身が悪霊を追い出された後、使徒たちはどうして自分たちにはその悪霊を追い出せなかったのかをお尋ねします。すると主イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と答えられました。しかし、使徒たちが悪霊を追い出そうとして上手く行かなかった時に、彼らが祈っていなかったといえば、それは言い過ぎではないかと思います。もちろん使徒たちは自分なりに一生懸命祈りながら、その業に仕えたに違いないのです。
 しかし、与えられている務めが上手くいかず難渋する時というのは、確かに、私たちが祈りへと導かれていく時だということは言えるように思います。上手くいかないことを誰か他人のせいにして心の中で裁いたり、あるいは念が足りないと言って強く念じてみても、それによって事情が良い方向に向かうわけではありません。そうではなくて、祈りの生活の中で、「神の御心はいったいどこにあるのか」ということを尋ね求めながら歩んでいく、その中で神の御業が行われ、そして癒しも生まれてくることになるのです。

 そういう意味で、使徒たちが果たすべき最大の務めというのは、祈りの奉仕であるとも思います。ですから主イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」とおっしゃったのでした。使徒たちは確かに、「慈しみに満ちた神の御国の到来」を宣べ伝え、そのことを現す「癒しの業」に用いられ、そのことで「主が共にいてくださる」ことを証しするのですが、それは何よりも、祈りの生活を通して行われていくということを、主イエスは教えておられます。

 私たちの教会には、使徒という役職はありません。しかし私たちの教会にも、それぞれ立てられる役職があり、私たちの教会では役員と呼ばれます。先日の総会で9人の方々が役員に選挙され、そしてご本人方もこれが主の深い御心であると信じてその務めを引き受けてくださいました。しかしまだ3名の方が決まらず、欠員の状態となりました。
 今日の週報に記されていますが、先週の役員会においては、3名の欠員を神から与えていただくために、今月末にもう一度臨時の総会が開かれます。自分のためではなく、主イエスの御心を祈って尋ね求めながら、主にお仕えする働きにふさわしい方が起こされ、与えられますように、私たちもなお祈るものとされたいと願います。
 そしてこの愛宕町教会が、「神の慈しみの御支配が確かにこの世界に来ている。私たち一人一人の上に神の愛と慈しみが臨んでいる。私たちはその下で生きてよい者とされている」ということを信じて、慰めと癒しが与えられ、明るい思いで生活する群れとして、なお育てられることを願い求めたいと思います。

 そして、そのことをさらに、周囲の方々にも宣べ伝える教会として育てられ、皆で共に歩んでいきたいと願うのです。お祈りを捧げましょう。

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